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    記憶に無い零戦

 零戦を操縦した方はもう貴重な存在でしょうね。、終戦前に飛んでる零戦を実際に目撃した人は、 まだ沢山いるでしょう。しかし、僕のように本物の零戦を見たこともない人が遥かに多いことでしょう。

 僕は戦争を知りません。テレビやニュース、映画の戦争は知っています。でも、すべて画面の中です。 いくら過激でも火薬の匂いはもちろん、弾も飛んできません。戦争の本も読みました。しかし、 紙に書かれた物でコーヒー飲みながらでも読めるのです。だから、悲惨さは実感できません。 沖縄の姫ゆりの塔や、地下壕なども訪れたことはあります。でも、これでも実感は湧きません。 零戦の本も読みました。優秀な飛行機であることや、特攻機に使われたこと等も知っています。 隊員が家族や日本の為に出撃したことも理解できます。別に戦争賛美する気はありません。 未経験者には、実際に悲惨な体験をした方の、真の気持ちは推し量れないだろうと言いたいだけです。

 僕が戦争について深く考えさせられたことの幾つかを上げてみます。それは、小学生の時です。 その頃は学校や、町角でも原爆の被爆者写真や記録映画の巡回上映などもありました。中学校の先生の中に、 戦時中、衛生兵だった先生がいました。この先生は時々、自分の体験を話してくれました。

 戦争でたくさんの人が死んだこと。先生は関東軍の衛生兵だったので、悲惨な場面に数多く出くわした事。 中国人捕虜を丸太と呼んで人体実験など、ひどい扱いをしているのを目撃したこと、 その他、ここでは書けないような状況を沢山話してくれました。戦争というのは最後はこうなるのだ、 人間が人間でいられなくなるのだ。戦争はしてはいけない。と。

 人間は困窮し食べ物が無くなり飢え死にする時に本性が現れる。食べ物を持っている人を見つけた時、 最初は懇願して、分けてもらおうとするが、そこで断られた時、ある人は空腹でも死を選び、 ある人は相手を殺して奪う。善悪の問題ではなく本能だ。そのうち殺すのが普通になる。だから、 そんな状況を作らない世の中にしなけれならない。とも言っていました。こんな話の時は、 全員聞き耳を立てていました。当時からクラスには悪もいました。いじめもありました。でも、その悪も、 物静かなその先生には一目おき素直でした。

 戦後50年もして、ニュース等で731部隊の事実未確認であるとか、調査するとか言ってますが、 昔そんな体験を生徒に話してくれた先生がいたのです。PTAは有りましたが苦情の話は聞きませんでした。 でもこんな事はありました。生徒が自分の感想を素直に作文にし、他の先生が誉めて文集に掲載したのです。 文集を配布して一週間後、「回収するので持って来るよう」に言われました。 きっと教育委員会かどっかから注意が来たのでしょう。 「へー、世の中ってそんなもんか」とその時に思ったものでした。

 小学6年の頃、自転車でリヤカーを引き、野菜を売りに来る八百屋のお爺さんがいました。お爺さんと、 お婆さんは、僕の母と長い付き合いでした。ある時、僕は母とお婆さんの家に行ったことがあります。 小さな一部屋の借家でした。お爺さんと二人でひっそり暮らしていました。僕の家は既に蛍光灯でしたが、 お婆さんの家は裸電球が1個しかない、薄暗い1部屋でした。部屋を見回すと仏壇があり、 中に大きな写真がありました。写真には海軍の帽子をかぶった、立派な兵隊さんが二人写っていました。

 お婆さんに「あの兵隊さん誰」と聞いたら「せがれさ、立派なもんだろ」と胸をはって答えました。 僕はキョロキョロとあたりを見回していました。なべ、釜、茶碗が少し、あと、やかん、がありました。 小さなかまどはありますが、流しはありません。井戸、流し、便所、は共同で、風呂もありません。

 帰り道に母が話してくれました。写真の兵隊は青年になったところで戦争に行き、 二人とも戦死したこと。子供は他にいなかった事。もし、息子が生きていれば、お爺いさん、お婆さんは、 もっと楽が出来たのにね。愚痴も言わず二人で細々と八百屋をやってるんだよ、と。 この時は戦争って可哀相な事するなと思いました。僕が就職し給料貰った時、お爺いさんのところへ蛍光灯を 付けに行ったのもその為でした。

 母は続けて次の話もしました。僕が赤ん坊の頃は戦争中であったこと。空襲が何度もあったこと。 防空頭巾が手放せなかったこと。僕を背負って医者に行くため汽車に乗っていた時、敵機の攻撃を受け、 急停車した列車の下に潜り、機銃掃射から逃れた事、畑に逃げた人は撃たれた事、等です。 僕は母に背負われ零戦や雷電、ムスタングやB29を見ていたのだろうか?そんな記憶はまったく無い。

 僕の記憶ではっきりしているのは、4歳位の時、小さな町にも進駐軍が来たことである。 大きな兵隊が沢山、列車に乗る為、駅前に集合していた。駅前には僕が良く行く一件しかない店があり、 綺麗で優しいおばさんがいつも、串に5つ刺した焼きまんじゅうを焼いていた。進駐軍が来た時、 僕たちは店の前にいた。そして、その綺麗なおばさんは店の奥の方に隠れてしまった。

 兵隊が数人、店に来た。兵隊は何か話していたが、やがて焼きかけの焼きまんじゅうを自分達で焼き、 他に焼いてあった焼きまんじゅうも含め、全部持って行ってしまった。兵隊達は列車に乗り込み、 列車が走り出すと、僕たち子供に向けて、客車の窓からチョコレートやお菓子を沢山投げてくれた。 (注、当時チョコレートと言う言葉は知らなかった。)

 家に帰り母にその事を話したら、兵隊を見たらすぐ家に帰るようきつく言われた。 例の焼きまんじゅうの件も既に近所で話題になっていたと兄が言った。 黙って持っていったと思っていたが、金が置いてあったそうだ。 進駐軍は盗まなかったと大人が感心していた。

 当時、家族が僕の話を信じてくれなかった事がある。僕はその進駐軍事件の数日後に、木炭バス以外の 自動車を初めて見た。それも白と空色の流線形の車体だ。自動車からアンテナが出ていたので、 紙にその様子を描いて説明した。でも、自動車にアンテナなんかある訳がないと、 誰も相手にしてくれないのだ。それだけではない。夜中に便所に行った時、便所の窓ガラスの外側に、 赤い手が「ぺた」と写っていた。これも、笑うばかりで信用しないのだ。 その時は、大人だって知らない事はあると本気で思った。

 それから数日後、「家にこんなのがあると良くない」と言って、母と兄は、長火鉢の引き出しに入れていた、 沢山の薬莢や、弾丸を、庭に穴を掘って埋めていた。せっかく兄が友達にもらい大事にしていたのに。 火薬の匂いを嗅いでいた僕の薬莢も埋められてしまった。

 串にさした焼きまんじゅうと零戦が好きなのは僕の潜在意識かもしれない。 進駐軍が来た頃、焼きまんじゅうは高くて買えなかった。口にしたのは小学5年になってからだった。 香ばしい、味噌たれの焼けた匂い、口の回りを味噌だらけにし、串から口でしごいて食べるのだ。
 今は上州でも、限られたとこでしか味わえない。それにしても、今の焼きまんじゅうは4個しかない。 しかもくっついてる。進駐軍が来た頃は、長さ一尺(33cm)もある串に一つ一つ差し、 5個刺してあったと記憶している。

   お爺さんとお婆さんのその後
 蛍光灯を付けてから数年して帰省した時に、その貸家には別の人が入っていた。 家に帰ると、例のお爺さんの余命が短く、母が見舞いに行くと言うので、一緒について行った。 ついた先は何処かの町工場の敷地の片隅のほっ立小屋である。台所と風呂、トイレの他一間である。 壁、床、天井等総てが裸のベニア板で出来ており畳は無い。何でも困窮している二人の様子に同情した地元の会社社長が、 自分の敷地に家を建てて2人の面倒をみてくれることになったそうだ。母は社長の行為に感心してその経緯を話してくれた。 僕も素直に感心な社長だと思った。

 それから一月位したとき、「お爺さんはあれから直ぐになくなった。お婆さんはそれから10日後に後を追うようになくなった。」 と、母から聞いた。  昭和39年当時の社会福祉がどんなであったか知らないが、老人ホームだの、ヘルパーだののシステムの無い時代だから、 親戚のいない二人の面倒を見る人がいなかったのだろう。 赤の他人の社長が面倒見てくれたと聞いただけで、裸ベニヤの小屋がとっても立派に見えたものだった。 昨今のニユースの汚職がらみの金持ちの豪邸が薄っぺらに見えるのは私だけかな、、。

 以後は就職、仕事、生活、に多忙で定年になりラジコンに熱中した。長らく平和な時代が継続し一段落したころに零戦の開発計画や技術の調査をしているうち、何故戦争を始めたのだろうか?と庶民には関係ない子供の頃の疑問が大きくなりだした。今なら暇はあるのでできる範囲で調べることにした。

​ 長くなるので別のページに移る。続きページへリンク。

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